2009年06月17日 (水) | 編集 |


    自分というモノは、いったいどこにいるのだろう。


    自分を認識する一番簡単な方法は、目で認識するということ。
    それと手で触るということ。


    そして目から見えるのは、自分の手、体、鏡にうつる全身、といったもの。
    手で触れるものは、自分の体。


    では、自分というモノは、目に存在している?
    それとも手に存在している?


    いや、目からはいってきた情報は、脳で解析され組み立てられて映像化される。
    手から入ってきた情報も、結局は脳で解析され組み立てられて触覚という情報に処理される。


    ではその脳で組み立てられた映像は、誰が見ている?
    その脳で組み立てられた触覚という情報は、誰が認識している?


    それも、どこで?


    今持っている体の頭の中か。
    それとも体とは離れた場所に存在する何かしらの“自分”というモノが、伝送経路を伝って“見ている”のか。



    自分が好きか嫌いか、考えていたら、自分ってなんだ?と思った。
    自分が自分のことを考えるとき、たいていの人は自分を相手に語りかけると思う。


    そのとき、自分が二人存在していないだろうか。
    “自分”に語りかける自分。そして自分に語りかけられている“自分”。


    このとき二人存在してしまっているのだから、自分が好きだ・嫌いだと思う自分は、好き・嫌いを判別する対象としての自分ではない?


    むー。
    困ったぞ。


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    コメント
    この記事へのコメント
    そう考えると出口はもう無いですよねi-6^^

    自分で見る、自分で触る、それにプラスして人に見てもらう、触ってもらう、人を見る、触れる。。。
    お互いに目で確認し、触れられるということは確実にそこに『在る』ということか。。。
    これで完璧かと思えば、自分という存在を実際の自分の目で(何かの反射ではなく)確認するという事はどう頑張ってもできないんだなぁ。。。と思います。
    ...ということは自分を100㌫理解できるのは死んだ時??
    空っぽの自分をそばから見ているいわゆる魂ってモノかなi-6
    そんなものがあるとは思えないけれど...
    それでも空っぽの自分は100㌫じゃないi-6

    もうお手上げですね^^♪
    2009/06/18(Thu) 10:45 | URL  | ふなうた♪ #g23jHA0U[ 編集]
    世界に一人だけだと自分の存在は確認できないんですよね。他人がいてはじめて自分を確認できる。しかもその自分は、自分を知るN人ぶんだけ存在する。N人いればN人だけ、自分を見る目が違うから。

    ただ、自分というモノがここに在るということは信じられるかな(^^;

    なので、おそらく自分のことは少なくとも嫌いではないのだと思います。嫌いだと、ここに在るということも信じたくなくなるはずなので。

    その後考えついた結論です(笑)
    2009/06/18(Thu) 22:58 | URL  | ばーど #-[ 編集]
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